I　LOVE　YOU 幕末までの日本には 「絶望」という言葉がなかった だから人々は「絶望」という代わりに 「困った」と言っていたのだと 司馬遼太郎が書いていたと 田口犬男が書いていた 未だアメリカには 「肩こり」に該当する言葉がない だからアメリカ人は実際に 肩がこらないのだと 爆笑問題の番組で どこかの教授が言っていた 女が眠りについたあと ぼくはそっとベッドを抜け出し 冷蔵庫のミネラルウォーターを飲んだ 新しい体位を試したせいで 絶望的に肩がこっていた ぼくが彼女にいだくこの なまあたたかく湿った感情は 単語にした途端にきっと 陳腐なくせに重たいだけの 別の何かに変わってしまうだろう 近代までの日本には 「愛」という概念がなかった だから明治の人々は 外国船で運ばれてきた「LOVE」という荷物を どう扱ったらいいものか ずいぶん手を焼いたらしい そこで「I LOVE YOU」を 四迷は「わたし　死んでもいい」と訳し 漱石は「月が綺麗ですね」と訳したという 平成の民は世界の中心で 愛ばかり叫んで憚らないが ベッドに戻ると 子どものような寝息が聞こえた 寝顔が見たくてぼくは 音を立てぬようにカーテンを開け やわらかな月光を招き入れた そして女の隣で眠った 膝を抱えて丸まって 古生代より沈黙を貫き もう二度と進化する心配などない オウムガイの化石のように