（「第114回コスモス文学新人賞」佳作） 　　　　　　　　富士湯にて 一番風呂　と思い立ち 午後４時　「富士湯」の暖簾をくぐった 下駄箱の木札を巾着にしまい 番台のお伊代ばあさんに450円払い だれもいない脱衣所で丸裸になって 前も隠さず浴場のガラス戸を開けた 湯気の向こうにいつもの雄々しい富士が見え その麓の湯船には 頭に手拭いを乗せたポコちゃんがいた 先客がいたかとやや落ち込みながら カランから洗面器にお湯を溜め 二度頭からかぶった後　湯船へ向かった 前を隠しながら湯に入り タオルを絞って頭に乗せてみた 極楽　など口にするのも気恥ずかしく 「ポコちゃん　はじめまして」と話しかけてみた 「いい湯ですなあ」とポコちゃんは言った 印象よりかなり老けて見えた 「あの、失礼ですけどおいくつですか？」と尋ねると 「数えとらんなあ　26年生まれじゃが」 とポコちゃんは答えた 「実際にはお歳を召されるんですね」と言うと 「当たり前じゃろおが　だが世間的には 永遠の７歳ということになっとるでな　 入浴料は今でも180円じゃ」 と言って目尻に笑い皺をきざんだ 「ポコさん」とぼくは言い直した 湯につかりながら　ぼくらは色々な話をした 大相撲のこと　衆院選のこと　三遊亭圓楽のことなど そのうちポコさんはのぼせてしまったようで 両頬をより真っ赤にして 「もう　そろそろ」と立ち上がったので 「では　ぼくも」とそれにならった ポコさんは女湯の方に向かって声高らかに 「おおい　あがるぞお！」と叫んだ 「はあい！」と気風のいい声が木霊した 板張りの脱衣所にあがり 扇風機の風にあたって涼んでいると ポコさんは裸のまま腰に手をあて 缶入りのネクターをぐびりと飲んだ いま来た客がお伊代ばあさんと話していた ぼくがゆっくり着替え終わる頃 ちょうどポコさんもオーバーオールに足を通し終え 「半分やる」とネクターの残りをくれた 冷えた桃の香りが喉を通った 木札を差してスニーカーを取り出し しゃがんで靴ひもを結んでいると ポコさんは青い帽子を頭にのせ 角度を気にしてかぶりながら 「おまえ　時間はあるのか？」と尋ねた 「もう家に帰るだけです」と答えた 「じゃ、うちに来なさい」とポコさんは言った 「将棋でもさそう」 暖簾をくぐると夕焼けだった