イーハトーヴの恋



男はひとり旅で岩手に来ていた

婚約者とひどい別れ方をして一年

まだ気持ちはささくれ立っていた

賢治のふるさとに赴けば

何かが休まるような気がしたのだ


ゆかりの地を巡り温泉につかったあと

男は酒場でひとりの女給と知り合った

小柄で目鼻立ちのととのったひとだった

ここの土地の言葉では

めんこい というのだろうか


「どうして岩手まで?」

「クラムボンを探しに」

女は白い手を口にあててくすくすと笑った

ひとしきり地酒を交わしあうと

男は明日も来ると約束した


次の夜 ふたりは店で落ち合った

「今日はどこまで何しに?」

「遠野まで河童に会いに」

「冗談ばっかり」

「明日の夕方には帰るんだ」

「じゃあそれまで案内するわ」


翌朝女は宿まで車で迎えに来た

パーカー姿に薄化粧だったが

昨夜よりもかえって垢ぬけて見えた

まず男の希望で啄木記念館へ行き

午後は女の案内で小岩井農場へ行き

そこでふたりはジンギスカンを食べた

遠くかすむ岩手山を眺めながら男は言った

「いっしょに東京へ来ないか」

「冗談ばっかり」


渋民公園の高台から

ふたり並んで北上川を見降ろした

男は女の肩に触れようとしたが

ふいに女がうたを口にしたので

男の指先は行き場をうしなって

手持ち無沙汰に自分の頭をかいた


 やはらかに柳あをめる

 北上の岸辺目に見ゆ

 泣けとごとくに


女の目はとおくを見ていた


日が暮れはじめたので

ふたりは慌てて車に乗りこみ

女は男を盛岡駅まで送った

男は礼を言って車を降り

夢行きの銀河鉄道ではなく

現実行きのやまびこ56号に乗った


それだけのことである

これは小説ではないので

都合よくロマンスには発展しない

ただ詩のむすび前にわずかな

後日談があるだけだ


十日後男のもとに一通の手紙が届いた

「一緒に暮らしてはいないのですが

わたしにはこの街に子どもがいます

だからここを離れるわけにはいかないのです

そしてわたしは愛というものを

もう信じてはいないのです」

男がそれとなく感じていた通りだった

男もまた愛にはうんざりしていた


それでも と男は思う

あれは恋だったのかもしれないと

たがいの抱えこむ過去が

もしもちがうものだったら

ちがう未来もありえたかもしれないと


いや 恋と呼ぶにはあまりに幼い

幻燈のような三日間だった

おそらくは愛に敗れたふたりに

イーハトーヴが灯してくれた

つかのまの童話だったのだろう