砂の男 いつもどおりの朝だった 男は目覚まし時計の音を消して ベッドに横たわったままリモコンのボタンを押した ちょうどキャスターが女優のスキャンダルを斬り終え お天気お姉さんが関東甲信の梅雨入りを宣言していた テレビを消して　代わりにラジオをつけた DJがいつものハイテンションで曲紹介をし ポリスの「TEA IN THE SAHARA」が流れ出した ベッドから起き上がりカーテンを開けると 六月にしては強い日差しが１DKにそそぎこんだ 男は顔を洗おうと台所に行き 蛇口をひねった 勢いよく砂が出てきた 男は顔を洗うことを断念し トースターで食パンを二枚焼いた 冷蔵庫を開けるとバターもマーマレードもなかった 他にパンに塗れそうなものも見当たらなかった 牛乳も野菜ジュースもちょうど切れていた 仕方なく男はそのまま食パンを齧った ラジオは浜田省吾が８３年にリリースした バラードアルバムの特集を始めた 男はコーヒーが飲みたかったけれど 砂で淹れる方法を知らなかったので諦め 「丘の上の愛」を聴きながら食パンを平らげた そして着替えて　玄関の扉を開けると 街は一面　砂まみれだった 歩くたび靴の底にざらついた感触が伝わった 風が吹くと頬に砂粒が当たった けれどだれも支障を感じている様子はなかった 魚屋のおやじは砂のついた鮭を売り 花屋の娘は鉢植えにジョウロで砂を撒き 通勤途中のOLは肩から掛けたLVのロゴが 砂まみれになっていても澄ましていた ただバスを待つ園児たちだけが 砂を寄せ集めて山を作っていた 男は今日締め切りの原稿を届けねばならなかった 先方から取りに来るほど男は売れていなかった 新宿駅から地下鉄大江戸線に乗った 車輪が砂を噛むせいで電車はややガタついた 編集者とアシスタントとは喫茶店で落ち合った コーヒーを三つ注文した 編集者は原稿にざっと目を通したあと 次からはデータで送信してくれればいいやと言った なあ？　と入社まもない女性アシスタントに尋ねた 若い頃の岸田今日子に似た彼女は はい　Wordの形式で　と答えた 無愛想なウェイトレスが来て テーブルにサーターアンダギーを三つ置いた 編集者とアシスタントは疑問を呈することなく ひとつずつ美味しそうに食べた 男は最後のひとつを手に取って壁に目をやった ゴヤの犬の絵が飾ってあった 不意に編集者のケータイが鳴った 着メロは中森明菜の往年のヒット曲だった 編集者がケータイ片手に店外へ出ていったところで 男はアシスタントに「ねえ　きみ　恋人はいるの？」と尋ねた 「はい　います」と彼女はきっぱり答えた 彼女は麻布十番　彼は赤羽橋に住んでいて 付き合って三年　会うのは月イチ 帰宅後２１時から２３時まではどちらもTVを観るから 互いに電話で邪魔しないことが取り決めになっているけど たいてい２３時にはどちらかが疲れて寝てしまうので 電話も　まあ　多くて週イチかニ 今の生活のリズム崩したくないので それでうまくやっています 男は喫茶店を出て地下鉄の駅に向かった 晴れわたる空から砂がぱらぱら降ってきた ケータイを開いてみると友人からメールが一件 結婚式の招待状だった さし　やゆ※　たちつ※　さしすせ　かき と携帯のボタンを押してみたけれど 次々と液晶に砂が積もり変換を確認できなかった ふと見上げると砂金を張りつかせた六本木ヒルズが ゴルフの優勝トロフィーのようにそそり立っていた 見上げる男の両目に砂が入ったが 涙は一滴も流れてこなかった 環状三号の風紋を「らくだ便」のトラックが踏んでいった 男はふたたび地下鉄に乗った 干からびてしまいそうなほど喉がかわいていた 車内は思ったより混んでいて 黒ネクタイを締めて紙袋を持つ男の集団が 冗談を言いながら笑い合っていた 男はiPodのイヤホンを耳に突っ込み ヘンデルの「水上の音楽」を選曲した けれどLとRから聴こえてきたのは何故か ドナルド・フェイゲンの「On The Dunes」だった シルバーシートに並んで座る中学生たちが ニンテンドーDSで通信しあっていた 電車は新宿に到着し ホームに砂と乗客を吐きだした そうだ　昨日カバンに　忍ばせておいたはずだ ２８口径クリスタルガイザー 男はカバンに手を入れ　そのボディを確かめ愛撫した そして強く握り　人目のつかぬ柱の影で取り出した しかし中身は水ではなく砂だった 力を入れすぎたせいで　ペットボトルの中央部がひしゃげ まるで巨大な砂時計のようだった 男は地上へと続く階段をあがり東口へ出た スタジオアルタの大型ビジョンに砂嵐が映っていた 通りすがりの人々がそれを見あげて笑っていた 男も真似て笑ってみた 口の中がじゃりじゃりした