遠い記憶



ちりぢりに舞う無数の魚たち

渡り鳥のように向かうべき地があるわけではない

飼いならされた犬のように帰るべき場所があるわけでもない

波のうねりや摂理の調べに身をゆだね

かれらはただ海の大空を

かなたこなたへたゆたうのだ


ぼくはそれを見ていた

うすべに色に黙る珊瑚礁の木陰で

憧れとは名ばかりの卑小な劣等感をもてあまし

感傷に走りがちな未完成をかかえて

たしかにぼくはそれを見ていた

どこからかG線上のアリアが聴こえてきて

世界は四肢を潮流に洗わせていた


太陽は地球を押し倒し

濡れた海の穴へ膨張した光を挿し込むと

波の律動に合わせてゆっくり腰を動かした

光は等しく　生まれるべきものにも

生まれざるべきものにもふりそそいだ

その時　ぼくはあなたを感じた

形というものを持たず魂とすら呼べぬ

いわば息吹の兆しのようなあなたを


ぼくらはその時すでに出逢っていた

だがそれは巨大な混沌の中で起こった

わずかひとときの接近であった

そして幾度となく繰り返される流転うちに

やがて互いを見失った

気が遠くなるほどの永遠性を孕んだ

揺るぎなき孤独の再来であった


揺れる海藻を見てぼくは風というものを思った

点在する貝を見てぼくは涙というものを思った

言葉や概念としてでなく　ただ感じていた

そしてあなたを激しく求めた　

いくら叫んでも声は泡沫となってむなしく揺れ昇った

ふたたびあなたに逢うためには

ぼくは生まれなければならない

それもあなたの誕生とほぼ時を同じくして

ぼくには分かっていた　意識や体よりも先に

愛は始まっているということも


頭上を魚たちが横切ってゆき

その影がぼくの眠りを撫でていった

生まれたい　あなたを愛したい

肉体というものを手に入れて　あなたに触れてみたい

やがてどこからかG線上のアリアが聴こえてきて

月の光が世界を照らしはじめる

いつか産声をあげる朝のために

繰り返されなければならない夜がやってきたのだった



これが父と母が出会う前の

ぼくの遠い記憶だ

馬鹿げていると笑うかもしれないが

こうしてあなたを抱きしめていると

昨日のことのように思い出せるんだ

信じようが信じまいがぼくはあなたを

生まれる前から愛していた