夜桜と老人



残業を終えた帰り道

上野恩賜公園を通り抜けていたら

ひとり茣蓙にあぐらをかいている

彫りの深い老人がいた

まだ桜は咲いていなかった


「御一緒してもいいですか？」

と英語で尋ねると

老人は黙ってうなづいた

ぼくは隣に腰をおろし

さっき買った缶ビールを開けた


「あの　不躾な質問ですけど

隠遁生活をしていたはずでは？」

と尋ねてみたが

老人は何も答えず

日本酒をぐびりとやった


「作品すべて読みましたよ

卒論も貴方の研究だったくらいです

一番繰り返し読んだのは『倒錯の森』ですが

『やさしい軍曹』や『エズミに捧ぐ』も好きです

グラス・サーガやホールデンの類いは

もちろんのこと」


それでも老人は黙っていたので

さらに探りを入れてみた

「不忍池にいる鴨たちは

冬に池が凍ったら

どこに行ってしまうのでしょうね」


すると老人は目を細めて

やっと静かに微笑んでくれたので

ぼくらはバドワイザーとワンカップ大関で

ささやかに乾杯をした

齢九十を祝って


終電が行ってしまったので

朝まで語りかけることにした

死を選んだシーモアや

死に損ねたフラニーや

死なせなかったゾーイーについて


たとえ口を開かなくとも

ぼくには声が聞こえる気がした

咲いてもいない夜桜が

きっと老人には

見えているように