深窓の佳人 家への帰り道 温室のそばを通りかかると ふいに呼び止められた気がした ガラス越しに中を覗くと 一輪のハナショウブと目が合う 彼女は白い花弁をふるわせて 何かを訴えかけていた ぼくは主人に声をかけ その一鉢をゆずってもらい 自宅の庭に植えかえた 温室育ちの彼女は はじめての直射日光に目を細め はじめての風に肩を揺らし 戸惑うようにはにかんだ 翌朝は雨だった 喜んでいるだろうと思いつつ 庭をのぞくと彼女は 慣れない雨に濡れそぼって ひとり寒そうに震えていた ぼくは慌てて傘を広げ 頭上に差しのべた 彼女の望みをぼくは 思い誤ったのかもしれない 見初めなければ平穏を 壊すことなどなかったろうに 傘の下　花弁に溜まる雫を 指でそっと拭った 次の朝は晴れていた 庭に出ると彼女は 真白い花の中央に 紫の花弁を増やしていた きっと箱入りの純白を 奪ってしまったのはぼくだ それでもぼくはあなたに 澄みわたる空を知ってほしかった 風の香りや虫の戯れや 雨の音や星のまたたきを そしてなにより 日に照らされてこそ映える あなた自身の美しさを 連れ出したことが 正しかったのか知るすべはない いつか悔やむ日が来るなら ぼくを恨んでくれていい ただそばにいるから 光を浴び風に揺れるあなたを 見守りながら暮らすこと どうか許してほしい